2008/08/23

科学が応えてくれないことと、そこからの危機~『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』その2

結論を先に示そう。

信じることによって、多くのひとが精神的な渇望を満たしているのだ。宇宙のなかに自分の居場所があることや、自分は大切な存在であることを教え、安らぎをあたえてくれるものなのである。
スーザン・A・クランシー著『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか(216ページ)

上記の引用は意図的に冒頭の目的語を省いた。書籍のタイトルの通り、それは「エイリアンによる誘拐」だ。
しかし結論としてそれに限るものではない。なんらかの条件を満たす限り、多くのものがこの目的語になりうる。
それが危険をはらんでいる。それに注意を払わなければならない。科学はその視点を取りこぼしてしまうから。

科学を効果的で有用なものにしているのは、公平で偏見がないという事実である。科学は、わたしたちが何を求めているかなど問題にしない。(上掲書213ページ)

科学だけが信ずるにたるものなのではなく、それどころか科学は一個人の居場所や大切さや安らぎには頓着しない。それが公平さであり、偏見のなさなのだ。
何か自分にはどうにもならない苦しさを抱え込んだとき、ひとが信じたくなるのは必然、科学以外のなにものかになる。そのことを誤りだと指弾できる立場の人間はいない。
エイリアンに誘拐されたと信じるひとたちは、それぞれさまざまな苦しさをかかえていたという。

科学が個人の個別の苦しさに回答を与えることができないのは、科学の方法論的な代償であって、認め受け入れるしかない。
とはいえ、上述の目的語が恣意的に入れ替えられてしまうことは、危険をはらんでいる。
苦しさを抱え込んでしまったひとに対して、そのひとから物質的であれ精神的であれ何かを奪ったり壊したりする害意をもった何者かがこれを利用することができる。
何者かは個人であるかも知れないし、組織であるかも知れない。何者かは害意に意識的であるかも知れないし、そうでないかも知れない。
案外、意識的でない個人が危険であるようには思えるけれど、社会的には組織であったときのほうが問題は大きい。危険にさらされるひとが多くなるから。

具体的にそれがどのようなものかはしばし棚上げして、“ゆるやかな接続”がひととひととのあいだに自発的に形成されると仮定したとき、その“接続”はこの危機を未然に防いだり、回避するための一助となりうるものだろうか?

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2 件のコメント:

柏春 さんのコメント...

やや難解ですが、私なりに解釈してみました。
 ふたたび、火星の住人さんの意図するところとは違うコメントとなっていたら、お詫び申し上げます。

 “ゆるやかな接続”は、個人的な嗜みの範囲であるならば、一助となりうるものではあるとは思います。

 しかし、全ての事柄に適応できるかどうかは、わかりません。

 ご存知だとは思いますが、わたしが専攻している分野で求められていることは、簡潔に言えば「適時性、個別性、継続性」を実践する能力だと思います。この、適時性に限っていえば、ゆるやかさは許されないです。

 一方で、「ゆるさ」が許されない分野だからこそ、「ゆるさ」を真面目に思ってくれている方が必要であると実感しています。

MarsResident さんのコメント...

「個人の嗜みの範囲」ですか。想定外の表現で面白いです。
“ゆるやかな接続”をわたしは意図的な行為とは違ったイメージで捉えていて、行為というよりは現象なんですね。
そこらへんの観点は違っても一助になりうるという同一の見解ですよね。
投稿にははっきり書いてないですけど、そう思わなければ、あんな問いかけをわたしもしないわけで。

適時性はゆるやかさを排除しますか。“溜め”の感情が入り込む余地はなさそうですね。それ以前にあまり感情的でもいけないのでしょうが。