2008/08/27

神と宇宙の“もどかしい”関係~Will Wrightインタビュー

ご存じないかも知れませんが、Will Wrightは著名なゲームデザイナーです。
ぼく的には「Sim City」のデザイナーとしてこそ偉大なんですが、以下のインタビューでは世界で累計1億本以上を売り上げた「The Sims」(邦名「シム・ピープル」)が強調されてます。ま、この世のなか、お金です。

ウィル・ライト氏、「SPORE」「The Sims」、科学を語る:インタビュー - CNET Japan:
http://japan.cnet.com/interview/story/0,2000055954,20379112-4,00.htm

とある理由があって、このブログではできるだけゲームの話題を取り上げないつもりで、それは曲げず、今回はあくまで「科学」の話題。インタビューでWill Wrightは次のように述べている。

いくつかの物理理論によると、わたしたちの宇宙でもブラックホールやビッグバンに類似した現象が存在するそうです。つまり、わたしたちの下に小宇宙が存 在する可能性があり、わたしたちはブラックホールを操作し、生み出すことができるポイントを突き止められる可能性があることを意味します。これはまさにわ たしたちの「下の宇宙」であり、こうした意味ではわれわれが神ということになります。

人類がこの宇宙のなかに階層的に下位の宇宙を生み出し、その創造主となる可能性を指摘している。
そして、次のように付け加える。

しかし、だからといって神が自分の下にある宇宙と実際に接触できるわけではありません。ここでの神は実際に下の宇宙を見ることも、操作することも、そこでやり取りされている情報を得ることもできません。いわば、「盲目の神」と言えるでしょう。

新しい宇宙の生みの親であるとしても、その子どもには何もしてあげられないし、その様子を知ることもできない。親と子がおよそ似通った存在ではないとはいえ、なんと“もどかしい”関係なのだろうか。
この観点は到って科学的な姿勢であろう。以前の投稿、科学が応えてくれないことと、そこからの危機~『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』その2で引用した、

科学は、わたしたちが何を求めているかなど問題にしない。
(『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』213ページ)

と相通じるところがある。人間が関わりたい、知りたいと思ったとしても、それは原理的に不可能だとはねつける。

定義によると、「universe(宇宙)」とは外からの影響を受けないものです。われわれが接触できるものであれば、それはわれわれの宇宙の一部です。宇宙の外にあるものは、永遠に知覚することはできません。

知覚することができないものは、科学者の視点から見ると宗教になるのです。したがって、多くの議論では、その境界線がどこにあるのかということが論点になると思います。

科学は知覚できないものを対象とはせず、知覚できないものは宗教の領分である。よって、この宇宙の外に属する“神”は科学ではなく宗教の対象である――見事に明瞭な科学的宗教観。
それでは、神話に語られる自らすすんでわれわれ人間に関わってくる“神”と呼ばれる存在は何ものなのか。このような科学的宗教観のもとでは、それは宇宙内存在であり、この宇宙の成立以前に創造の契機をつくった“神”ではない。
この宇宙内に存在する、意図をもって行動できる存在、そう考えると、定義的には「エイリアン」と呼ばれるべき何ものかということになるのかも知れない。
科学的宗教観に基づく“神”がわれわれ人間の気持ちを満たしてくれないのだとしたら、それを埋め合わせるのは「エイリアン」になるという可能性は否定できない。
そのとき、「エイリアン=alien」は「地球外の惑星からの到来者」を意味するのだろうか?

宇宙の外に、知覚不可能なこの宇宙の創造主が存在すると仮定したとき、なんらかの方法で「この宇宙に引きずり下ろす」ことはできないのだろうか? 引きずり下ろし、知覚可能で接触可能となったとき、それはすでに“神”ではないのだろうか?

「引きずり下ろす」まではいかないとしても、創造主はわれわれになんらかのメッセージを送ることができるのではないか。われわれが宇宙を生み出す場合にも、その宇宙内存在へわれわれの存在を示す何かを送り込むことができるのではないか。
そのひとつの回答例がカール・セーガン著『コンタクト』のラストに示されている。映画には残念ながらそのシーンはない。
『コンタクト』アーサー・C・クラーク著『二〇〇一年宇宙の旅』のセーガン版再解釈と思われるが、そのラスト・シーンであるいはクラークを超えているかも知れない(少しばかり『宇宙戦艦ヤマト』が入ってると思ったり。セーガンが知ってたとも思えないけど、ストーリィには日本も出てくる)。

クラークはこの宇宙の外側の創造主のことを語ろうとはしていない。それが純粋な科学的態度なのだろう。セーガンはあえて創造主が存在する可能性を示そうとした。科学の守備範囲の“外”と向き合う必要性を感じていたのかも知れない。

P.S.
女性主人公エリーを初めとして小説『コンタクト』に登場する多くの人物、ほとんどすべて科学者たちがやけに淡々としているという印象を持つかも知れません。
科学なひとたちは、普通の多くのひとたちが普通に感じるであろう「こうしたい」とか「そうあってほしい」とか、そういった気持ち、想いが外部から「原理的に無理!!」と叩き切られてしまうことに慣れているというか。それが科学的宗教観のみならず、人生観や社会観にまで染み渡っているというか。
慣れているから誰か他人から想いを叩き切られても案外平気だったり。そして、他人も同じだと思い込んでいたり。「それは論理的にありえない」と相手が感じていることに頓着せず平気で叩き切る。「ありえない」と口で指摘するだけまだマシで、当然なので伝えようともせずに切り捨てていたり。それで相手が傷ついていることに全く気づかなかったり。
こう書くと科学者、ずいぶんヒドイひとのようにみえるけど、事実ないわけではない側面で、ぼくは科学者ではないけれど、自戒の気持ちを込めつつ。

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