2008/09/03

沖縄海底遺跡は知的生命が造ったものではない

これは断言します。確信があります。
あの、沖縄で発見された海底の階段状の構造は知的生命が造ったものではありません。
地球人類がまだ未熟で、石を直角に加工できなかった時代に、地球外から知的生命が到来して加工したのだとしても、その生命が知的である限り、あのような階段状構造を残すことは考えられません。そして、知的でなければ地球外から沖縄には到来しないでしょう。

あるいは、あの構造は“知”ではない“感性”に基づく反“知的な”表現だったのでしょうか? だとすれば、その表現は驚くほど間延びしたもので、およそ地球人類の切迫した“反知性的”な表現とは異なるものです。なんか、とてつもなくうらやましい、ゆったりとした表現です。まさに、なかば自然と一体となって、それでありながら、あせらず自己を主張している、その時間ペースには学びたいことが山のようにあります。
あの構造は、そんな地球外のアーティストが残した作品なんでしょうか?
だとすれば、よろこばしい限りです。そして、地球人類的な論理や実利に基づく解釈が意味をなさないことを踏まえるべきです。

わかりやすく云えば、あの海底遺跡の階段状の構造は、明らかに階段ではないんです。
正直、最初に水中映像を観たたとき、あまりに直角な構造に人為を感じました。そこには階段のような形状がありました。
しかし、それは知的生命が階段としての機能を企図して造ったものではない。
なぜなら、その形状にアフォーダンスがないからです。それが知的生命の造作物ではないと確信する根拠です。

アフォーダンスは、ジェームズ・J・ギブソンなる人物が提唱した概念(Wikipedia参照)です。ここでは詳述しません。
ギブソンの本来の意味では、生物の行動は自然に存するアフォーダンスに基づき、affordされてます(アフォーダンスはギブソンの造語。語源は動詞のaffordで、彼の勝手な名詞化)。
結果的には人工物であっても、そこで生物がなんらかの活動を行なうかぎり自然と同様のアフォーダンスがあると考えられます。
沖縄海底遺跡の階段状の構造には、そのアフォーダンスが感じられないのです。つまりは、生物が関与した構造ではない、物理的結果論的構造だということです。

とはいえ、沖縄海底遺跡に人為としか思えない別の構造があるという指摘もあります。
かつて海面が低く、海底遺跡が海上にあった時代、あまりに見事に直角に画された形状を目にした住民がそこに超越的な人為を感じ、畏怖と尊敬を以て人為的な加工を追加した可能性もあるでしょう。
ぼくはそれを否定はしません。その意味で遺跡である可能性は否定できません。ぼくの主張は階段状の構造が実利的な知的活動の結果であるとは考えられないということです。そして、地球外のアートな表現であれば実利的解釈は有益ではないという見解です。

断言します。「ありゃあ、階段じゃねえぞ」

P.S.
とあるお店でお酒を飲んでいたんですが、テレビが点いていて、次回予告で沖縄の海底遺跡が出てきました。それがきっかけです。

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